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2009年01月21日

「北限のサル」下北半島のニホンザル4 観察者と捕獲処分

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 「『北限のサル』下北半島のニホンザル3」に引き続いて、今回は主に観察者の話を。

 今現在、サルの研究における個体識別はごくごくあたりまえのことですが、これは日本発の画期的な手法でした。人間以外の動物の個体識別などできるはずがない、たとえできたところでそれに何の意味があるのか、という見方が欧米諸国ではごく普通だったからです。なので、京大グループの研究成果も、当時は驚きと同時に疑いの目を向けられていたようです。
 サルの分布の中心は熱帯・亜熱帯域であるため、理学的研究の盛んな国(いわゆる先進国)で自国内にサルがいる国は日本をおいて他に無かったという事情が、日本でサルの研究が盛んになった理由のひとつとして上げられますが、個体識別という手法については、キリスト教文化圏においては人間と人間以外の生物がはっきりと区別され、人間以外の生き物に人間的なもの(個性や感情といったもの等)を認めようとするなど考えもできなかったのに対し、日本的文化では歴史的にそのへんの垣根があるようなないようなだったからこそ個体識別による研究というものが可能だったのだ、という理由付けが多くみられます。シンプル過ぎるように思える理由ですが、本当にそういうことだったのかも知れません。まあ、そのへんはともかくとして、一度個体識別という手法の有効性が評価された後は、他のサルもみな、個体識別を前提とした観察や研究がなされるようになりました。
 個体識別して観察したからこそ群れの中に社会構造があることが認められ、個体識別したからこそ、サル一匹一匹それぞれが、それぞれのやりかたで他のサルと関わりあいながら生きているということがわかってきたわけです。サルAの子供がBで、BとCは仲良しでCはキレやすい性格でDよりも優位な立場にあるけれどEにはごまをすりまくっていて・・・、などなど。集団でやってきてはワイワイギャーギャー騒いでいるやつら、として見るのと、何らかの理由でときおりワイワイとかギャーギャーとかいう声を上げるやつがいる集団、としてみるのでは、見えてくるものが全く違ってくるのは当然のことでしょう。
 こういった視点による観察は、サルというものが個体識別して観察するに足るほど、豊かな個性をもって日々を生きている生き物であったことをあぶりだしたということでもあるわけです。

 そういったわけで、下北半島のニホンザルもまた、可能な限り個体識別され、ナンバー、もしくは愛称としての名前がつけられて観察されています。書籍やテレビ等の各種メディアにも名前のつけられたサルが多く登場し、それぞれの個性的な生き様が紹介されたり、波瀾万丈の人生(猿生?)が描かれてたりしています。
 が、当たり前なことにサルの観察はサルを見られないことには始まりませんので、実際によく観察され、名前もつけられているのは、いきおい、ある程度以上人に慣れたサルということになります。そして、そういったサルが所属する群れの多くは、人里におりて畑を荒らす群れでもあるわけです。

 今回の下北半島広域で270頭という、全体の6分の1にもなる大量捕獲について、捕獲処分は当然、もしくはしかたないという意見が多いようですが、捕鯨に反対するシーシェパードのような過激な動きこそないものの、殺さずに済む方法はないものか、なんとかして共生・共存の道をさぐれないか、などという声も随所で聞かれます。
 ほぼ正反対となるこれらの声ですが、このような形で紹介するとき、そこにひとつの共通点をみることが出来ます。つまり、そのどちらもが「下北のサル」「天然記念物」「罪なき野生生物の命」「害獣」「憎っくき敵」などという具合に、集団をひとくくりにした上で「捕獲処分」というものを捉えて語った声になるわけです。
 それに対し、実際のサルを観察しつづけてきた人たちの中は、ここにちょっと違う意味合いを加えてしまう場合が少なくないと思います。
 今回もまたひどいたとえ話を持ち出してしまいますが、友人とその家族などといった知り合いが60人いたとして、そのうち10人殺さなければならないならばいったい誰に死んでもらうのか、という話は、仮定であってもあまり考えたくないことです。が、サルを個体識別して観察していれば、目の前で繰り広げられる捕獲作戦がこれと大差のないこととして目にうったとしても不思議ではありません。
 もちろん、物見遊山的な観察でなく、そこに研究という要素が加わったときには、目的やその方法論によって積極的感情移入に近いスタンスをとろうとする場合もあれば、数値を扱うと同様の冷静な視線を送り続ける場合もあるでしょう。が、サルは体の作りやしぐさといったものが人によく似ており、感情の生き物と言われることもあるように、一匹一匹が極めて表情豊かで、その行動の多くは喜怒哀楽カテゴリーでの解釈も可能です。異文化で暮らす民であることは疑いなくとも、そこもここもが自分とよく似ています。どんな関わり方をしようが、繰り返し視線を送り続けたとき、個対個としてなにも感じずにいるのは難しいことでしょう。
 ですので、サルの観察に深く関わっていればいるだけ、そして、猿害を憂えて対策を考えなければいけないと思えば思うだけ、つらいことになりそうです。
 私もまた、下北には知り合いのサルがいますが、いえ、一方的に知ったつもりになっただけのサルですが、もう長いことご無沙汰しているため、今、生きているのか死んでいるのかも知りません。が、今でもその表情やしぐさ、声までも、簡単に思い浮かべることができます。もしもそいつが今回の捕獲で処分されることがあったなら、などと考えると、やはり落ち着かない気分になります。

 猿害という社会問題に対し、観察者個人個人の思い入れに過ぎない話を持ち出して、だからどうすべきなどと言う気はありません。意味のないことだと思うからです。が、サルを知ることでサルとの距離感が変わるなら、それはいつか、問題の捉え方を変えていくことに繋がるかもしれないと思います。
 先に紹介した記事中で、サルを追う写真家であり、NPO法人ニホンザル・フィールド・ステーションの事務局長でもある松岡史朗さんは、今回の大量捕獲の許可に対してこういっています。
「誰かが何らかの対策をしなきゃいけない。捕獲は選択肢として理解する」
 ごく短い言葉ですが、この言葉のかげには、下北の山で松岡さんが見知ってきた数多くの猿の姿と、その猿たちが目の前で繰り広げてきたたくさんの物語があるはずです。
 そして、松岡さんの言葉はこんなふうに続きます。
「悲しいことに、人間とサルが将来どんな世界を描くのか、今まで語られていない。ビジョンを示すべき時に来ている。270匹を『犬死に』に終わらせてはならない」
 「個体数調整」という名のもと、増えたら殺す、減ったら増やす、といった数合わせ行為の繰り返しばかりでない「何か」を求め、その「何か」から得られるものが確実にあると信じているからこその言葉だと思います。
 それは、人類の行く末というものを考える趣味のある人にとっても、決して無意味ではない「何か」なのだと思います。

 長くなりましたので、続きはまた後ほど。


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