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2008年11月27日

「モニタリングサイト1000」について 4

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 ところで、ちょっとすっとぼけたそもそも論になりますが、私には「自然環境の質的・量的な劣化」というのが具体的になにを意味するのかいまひとつよくわかりません。
 おそらくは、道路建設や治水・上下水道周りのインフラ整備、エネルギー供給、宅地やレジャー施設等の開発、廃棄物処理などといった、人間の生活活動や建設業関係、そして、農業、林業、水産業の影響により、今、もしくは今よりちょっと昔の状況から他の状況に遷り変わってしまうことであり、特には、その遷り変わりの中に多様性の低下と今現在希少な種(絶滅危惧種等)の個体数の減少や絶滅がみられる場合や、なんらかの目的で国外から持ち込んだ種もしくはいつのまにか国外から侵入した種の制御困難な増殖がみられた場合を指すのだと思います。
 多様性は維持されていても、その内容としてあまり好かれていない種の量比が増大してしまったら、それもきっと劣化と呼ばれるでしょう。
 つまり、「劣化」という言葉を使っているからには、このモニタリングの背景には、なんらかの形で「現状、または現状に近い望ましく好ましい自然環境像」、もくしく「本来の日本の理想的な自然環境というべきもの」が比較対象として想定されていることが伺えるわけです。
 今の生活水準を維持するツケが今の自然環境の破壊という形で出ているというシンプルな構図だけならば話はわかりやすいですが、そこに、「ちょっと昔の豊な自然のあった時代」のツケが今や将来に現れているという要素が入り込んでいるとなると、「現状」または「ちょっと昔の豊な自然のあった時代」の状況を(復元し)維持し続けていこうとすることは限りなく困難に思えます。
 また、「ちょっと昔の豊な自然のあった時代」とひとくくりにしたとき、その影に隠れて表に出て来づらかった闇の部分の見落としは、重大な問題となって蘇る可能性があります。農薬を使っていなかった時代に死に至る未知の風土病とされていたものが、そういう時代だったからこそ蔓延していた寄生虫によるものだった、などというのも、関連する例のひとつとしていいかもしれません。
 社会の現在に至る発展を環境とのからみで大雑把にまとめるならば「自然の克服の歴史」というものであって、おそらく、「劣化」に対応して位置づけられるようなちょうどよい理想的な時期などあるはずがないと思います。
 つまり何をいいたいかといえば、いったいだれがどんな理由でどうなることを望んでいるのか、そのとき自然環境の価値はどう位置づけられるのかという、かかわる人々それぞれの利益をもからめた部分がもっとオープンにならないかぎり、「自然環境の質的・量的な劣化」も「劣悪な自然環境の克服」もたいして意味をもった主張の材料にはなり得ないと思うわけです。
 こういったあいまいさを逆手にとるならば、自然環境等になにかしらの変化があったとき(ほっといても毎年毎年若干の違いは出てくるはずです)、声が大きいものが勝ちという理屈にのっとって任意に「劣化」と呼んで騒ぎ立てることも出来てしまうわけで、結果、どこかの誰かに都合の良い方向でお金を動かすなんて利益誘導も不可能ではない話に見えます。

 そもそも自然保護とインフラ整備はバッティングするに決まっていて、その解決策や妥協案はどうしたって非対称な交換条件を前提にするしかありません。何を犠牲にして何を守るかという部分を出来るだけクリアにして、あとはいかにきちんと犠牲の部分をフォローをするかという話です。自然との共生なんてのも、その具体的な内実は犠牲の明確な認識とそれに対するフォローをうまくめぐらせることなんだろうと思います。
 とはいえ、守りたい部分というのが、ごくごく個人的な損得や保護活動にかこつけた自分探しのお祭り騒ぎだったりとか、今日明日の仕事の受注、次の選挙、上司の顔色、メンツ、ファッションとしてのエコなどなどという、犠牲部分と関係なくても存在できる問題だったりすると、やっぱ、解決も妥協も難しくなってしまうわけですが。

 話がちょっと広がりすぎ、勝手な妄想モードに入りかけたのでこのへんにしておきますが、本音を言えば、「劣化」という言葉が使われるのもわからないわけではないす。
 国として将来の自然環境に関する具体的なビジョンがまともに語られることがほとんど無い中、縦割り行政の片隅からの声としての「劣化」という表現は、ある種絶妙なチョイスなのかもしれません。

 ってことで、100年後に人類がまだ地球に生き残っていたらの話ですが、このモニタリングの結果を最大限にいかしてその先1000年続くビジョンを構築してもらいたいものだと思います。で、そのときの人間と他の生き物との関係に関しては、偽善や欺瞞を排除した位置に、シンプルで直接的でわかりやすいものが再度確かな根っことして座っていて欲しいなと思います。
 つまり、「ここにいるこいつは、食えるのか? 食えないのか?」

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posted by biobio at 09:51 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 各種調査の話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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